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123便墜落と阪神大震災を共に経験するという数奇な運命を辿った一人の女性がやっと掴んだ小さな幸せ

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123便墜落と阪神大震災を共に経験する
という数奇な運命を辿った一人の女性が、
やっと掴んだ小さな幸せ










幸せを掴んだ川上慶子さん
http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/3af1244c227aa673412f99309b8879fa

<一部転載>


「週刊朝日(7月15日号)」に
「育ての母が語った 川上慶子さん その後の人生」
という記事が載っていた。
慶子さんの父親の姉、つまり伯母に当たる小田悦子さんが記者の
インタビューに応じられての内容だ。”あの日”、慶子さんは
父親(当時41歳)と母親(同39歳)、そして妹(同7歳)と
共に123便に乗り合わせていた。

当時大阪に在住していた小田さんの家を訪ねる予定だった。
待てど暮らせど来ない弟一家に気を揉んでいる中、日航機が
行方不明になっている事を知ったという。翌日になって現地に
駆け付ける途中のTV画面で、姪っ子の慶子さんが救出される
シーンを目にする事となった小田さん。
慶子さんの逆立つ髪の毛にその恐怖心の凄まじさを感じ、
又、近くに居た人から小声で「良かったですね。」と囁かれた
ものの、他の家族の安否を思うと手放しでは喜べなかったのだとか。

その後、生存者達の証言から明らかになっていったのが、
墜落直後にはかなりの人が生存していたという事実。
”その時”の話を小田さんも慶子さんから聞いたという。
「あの時早く助け出していてくれれば、もっと多くの人命が
救われたのに・・・。」と、慶子さんは何度も語っていた。


事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と
(飛行機には乗り合わせていなかった)兄の3人で生活し、
小田さんも大阪から足繁く通って彼女等の面倒をみた。
美少女と言っても良い慶子さんには、励ましの声と同時に
好奇の目も集中したという。ストーカーまがいの行為に
長く悩まされたり、自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる
様にもなった。そんな状況が10年近くも続いたのだとか。

小田さんは、「今は色々な事故が在っても、被害者は精神的な
ケアをして貰えるけれど、当時は全部個人でせなあかんかった。」
と語っているが、当時の慶子さんは「こんな事されるんなら、
あの時御母さん等と一緒に自分も死んでたら良かった。」と
漏らした事も在ったのだそうだ。被害者が、マスメディアの
”煽り”で更なる心の傷を負わされる典型だろう。
この構図は今になっても全く変わっていないのだから許せない話だ。

慶子さんが保健士だった母親の遺志を継いで、看護士となった
ニュースは聞き及んでいた。兵庫県の病院で働き始めた彼女は、
1995年の阪神淡路大震災では、怪我人の手当てに奔走したという。
嘗て自らが大惨事の中に居た彼女が、同じ様な大惨事に直面し、
その中でどの様な気持ちで職務を全うしたのかと思うと辛さが募る。


やがて、趣味のスキューバダイビングの為に訪れたアメリカの地で、
夫となる男性と知り合った慶子さん。中学生の頃から間寛平さんの
大ファンで、常々「一緒に居て楽しくて面白くて、顔はジャガイモ
の様な人が良い。」と言い続けていた彼女が、その男性と結婚式を
挙げたのは2002年の秋だった。今は、会社員の夫と息子の3人で、
西日本の地方都市で幸せな生活を送っている。

事故後3年程は飛行機に乗れなかった彼女も、今では飛行機に
乗る事は出来る様になったというが、事故の話をするとPTSD
の様な症状が出るという。
当然の事ながら、今でも心の傷は癒えていないのだろう。

事故の取材は一切受けたくないとしている慶子さん。
廻り近所に”あの川上慶子さん”と知られる事も無く、
愛する家族と共に送る”普通の生活”に幸せを感じている
様だと小田さんは語っている。

最愛の父母と妹を一瞬の内に失ってしまった慶子さん。
そして、その後に彼女が歩んで来た苦難の道程。
やっと幸せな生活を掴んだ事を知り、思わず頬が緩んだ。
これからも、亡くなった3人の分も幸せな日々を享受して
貰いたいと切に願う。

<一部転載終わり>



管理人

冒頭に出て来た川上慶子さんの救助シーンは、今でも
脳裏に焼きついています。
今、どうされておられるんだろうと気になっていました。
しかし、何ということだろう・・・
JAL123便墜落のみならず、あの阪神淡路大震災にまで
お遭いになられたとは、思わず絶句させられました。

あのJAL123便墜落と阪神淡路大震災の二つの大事故を
その二つとも経験された人は、この世に二人とはいないでしょう。
JAL123便墜落が、1985年に起こり、ちょうどその10年後の
1995年に阪神淡路大震災が起こったというのも・・・
果たして偶然なのかどうか?


偶然ですが、阪神淡路大震災には、私も多少の縁があります。
あの当時、少しばかり、ボランティアをしていた経緯があり、
広島の地で、カンパを集めたり、食料や毛布といった
震災時に必須な物資を緊急援助として送らせていただきました。

それから10年以上もの月日が経ち・・・・・
私は、あるテレビで流されている映像を信じられない思いで
見入っていました。
「アンビリ-バブル」という番組でした。
その番組に出て来る主人公は、これもまたある一人の女性の方でした。

以下のものは、以前、記事にしたものです。
稚拙な言葉は、多少、手直ししています。

2011年3月25日
悲しみと涙と絶望の果てに~今だからこそ伝えたい
感動秘話  阪神大震災 ~ 全て実話です

http://ameblo.jp/64152966/entry-10840963596.html


$wantonのブログ


何年か前にテレビで「アンビリ-バブル」を見ていたら
後半のところで「世界の感動秘話」というのをやっていました。
阪神大震災で家族全員を失った悲しい20代の女性のお話でした。

悲しくも震災の時に家が倒壊して親兄弟が皆押しつぶされて
亡くなってしまわれたのです。
彼女自身も大変な目に遭いましたが一人だけ助け出され,
その後長期に渡って入院を余儀なくされて仕舞われたのです。

長くつらい悲しみの時間が過ぎ去り、
やがて退院の日がやってきました。

彼女が真っ先に向かったのは・・・
かつて自分と家族が住んでいたお家でした。

しかし、そこはすでに整理され更地になってしまっていて
かつてあった自宅はもちろんのこと、
記憶にあったものは、何もありませんでした。

彼女はもうすでに家族全員を失ってしまって絶望の淵に
たたされていましたが,そのさら地を見るに及んで
より絶望感を深めたのでした。 
文字通り全てを失ったことを実感した瞬間だったのです。

彼女は生きる希望を完全に失ってしまいました。 
それからというもの元の家の場所を時々訪ねるたびに
「死にたい」と思い続けるようになってしまったのでした。 


毎日、自殺を考えながら元の我が家の周りをふらふらと
かつての思い出を探しながら歩いていたある日のことでした。 
ある場所に、とっても小さな一厘の「ひまわり」を発見したのです。

彼女は、あんなに悲惨だった震災現場でさえも
「太陽に向かって精一杯咲いている小さなヒマワリ」に
とても新鮮な驚きと感動を覚えられたそうです。 

それからしばらくの間、自分の死とこのヒマワリを見つめ
ていて、何かが込み上げてくるものを感じていました。
彼女の目は、大粒の涙で溢れていました。 
そして、くしゃくしゃになりながら、
もう一度生きてみようかと思ったのだそうです。


それから、往く年月を経て「あるコメント欄」に
その時の心情を投書されたそうです。 
恐らく、気持ちの整理をしたかったのでしょう。 

ある時に、偶然そのコメントを目にした人がいました。
その人というのは、あるアメリカ人で高名な絵描きの
女性の方だったそうです。

その女性の絵描きの方は、大変感動されました。
そして、被災に遭われた女性にとっても素敵な油絵を
プレゼントしたいと思われたそうです。

心から元気づけたかったのでしょう。
その絵は、とても生き生きとしたヒマワリの絵でした。


そのような内容が、感動秘話としてテレビで流れていたのです。
私は一般の視聴者とはまた別の感動を感じていました。

震災直後に私はボランティア活動をしていました。
カンパや食料や衣料そして毛布といったものをテレビで
広島県内の市民に呼びかけて集めて被災地に持って行きました。

その時に一緒に「ヒマワリの種」を5個入れた袋を
かなりの数、持って行きました。

ヒマワリの花言葉は「希望」です。
被災者の方に少しでも希望を持って欲しいといった想いからでした。

その時に,もしかしたら被災者のどなたかの植えられた種が
育ったヒマワリかもしれないと思ったのです。
ヒマワリはどこにでも咲いている花ではありませんから・・・。

テレビを見ていて新鮮な感動を覚えたのは
そういった理由からでした。

家族全員と自宅の全てを失われたその大変気の毒な女性の
方の消息は、今の私にはわかりません。

決して希望を捨てないで・・・どうか、どうか・・・
幸せに生きていって欲しいと祈るような気持ちで眺めていました。












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